​©2019 心の杖として鏡として製作委員会

​フランスからの声2

★マージナルな状況に置かれた人々のグループに対して、作者が大いなる献身と多くの忍耐を捧げたその表現を目にすることが出来ました。また、確かに大きな勇気をも必要だったことと思います。というのも、こうした主題は大衆向けではありませんし、文化団体の興味も惹きませんから。ここには偉大な映画的アプローチがあって、安彦氏(マイスター)が、アトリエの参加者たちと共に完成させた仕事を、見事な的確さで証言しています。彼の仕事は、薬の代理物ではないし、さらには、何らかのセラピーでもありません。むしろ、芸術の実践を通して、実存への愛着、および、成し得る絆を強める可能性をもたらそうとして開かれた一つの扉なのです。こうした点で、高橋氏が平川病院の芸術工房で製作したこのドキュメンタリー作品は、その独自の特質ゆえに、広く配給されるに値するだけでなく、また、指針を示し、模範となり、かつこの戦いを続行するために広く支持されるべきだと思います。

バルバラ・ダスノワ(抽象画家)

★この映画は、日本の精神病院におけるアート・セラピーのアトリエのあり方を伝える素晴らしい証言であると私は思う。
 事情をよく知る人の話では、フランスでは、このタイプのアトリエの革新的な側面は日本ほど重視されていないと思う。ともあれ、質の良い映像で、優れた感受性と繊細さをもって患者たちやその状況が撮影されており、これが素晴らしい質を備えたドキュメンタリーをつくり出している。
 この患者グループを創設したアニメーター(*命を吹き込む人の意)の画家は、「アート・セラピー」という名称に疑問を抱いているようで、このアトリエをどう規定するかという問題があるといえる。しかし、私から見れば、それ以上に根本的な疑問は、精神疾患の患者である芸術家、および彼らの作品をどう規定するかという点だと思う。それは、精神疾患とは何か、いわゆる近代社会と呼ばれる我々の社会はどう機能しているのか、そして、この社会は人間にどんな場をあたえているのか、といった点についての問題提起である。       
・日本のアート・セラピーのアトリエの例

 このドキュメンタリー映画の主体であるアトリエは、明らかにアート・セラピーのアトリエである。たとえこのプロジェクトを創始した画家で芸術家のアニメーターが自己弁護したとしても、彼に他の名称を与えることは出来まい(あるいは、多分それは翻訳の結果かもしれないが)。
 これはセラピーの枠内に設定された活動である。創造過程と言語化を通じて、患者は自分の問題性に対して距離をおくことが出来るようになり、問題をもはや自分と同一化しなくなる。≪存在している≫という彼の気持ちは強まり、他者との積極的な関係を(再び)とり結べるようになる。
 このアトリエは、一つの方法をセラピーと心理教育の境界線上で展開している。つまり、治療と(絵画などの技能)教育が密接に結びついているようである。つくり出されてゆく作品は特別なもので、基本的にそれが患者とアニメーターとの討論、および、患者同士の討論に役立っている。ここで展開しているのは、精神分析理論の基礎原理というよりも、むしろ、創造活動が持つ本来の効力[徳性]である。

 患者たちは、このアトリエに足げく通い、意識的、あるいは無意識的に芸術的感性を共有している。なかには病気になる前から芸術的感性や、さらには芸術的実践を身につけていた患者もいる。また、無意識のうちに持っていた芸術的感性が興味を引き出し、アトリエに関心を向けるようになり、やがて定期的に通うようになった人もいる。芸術という媒体を用いて、自分の症状を映像化したり表象化する人もいる(強迫神経症障害の男性の場合)。この人は、絵を描くなかで、自分の症状に対して距離をおけるようになり、他者に自分を開いてゆくことが出来た。芸術的感性は、作文、音楽、造形芸術など、様々な形態をとって表わされ、まさにアニメーターの優れた知性と感情移入のおかげで、各人が自分の場を見出すことが出来ている。
 これらの患者の中には、真の芸術作品を実現する人も何人かいる。彼らは、治療のためだけに作業をするわけではない。創作することがひとつの人生設計となり、仕事となっているのである。ここでは、アニメーターの芸術的、および教育的資質が技能習得という面に保障を与えていて、一部の人びとが完全な[芸術家と呼ぶに値する]芸術家になることを可能にしている。
 活動のセラピー的側面は、病と距離を置くことによって、病の弊害を部分的に修復することを可能にしている。技能習得という側面は、芸術活動を行うという企画に患者が参加しやすくしている。病気になる前から芸術活動への企図を抱いていたが、様々な理由から諦めていた人もいる。また、そんなことは全然考えたこともなかった人もいる。しかし、いわば病気のおかげで、そして、このアトリエのおかげで、そうした企図が(再び)可能になったわけである。ある若い男性の場合、映画の最後で、画廊からのコンタクトがあった。また、33年前から入院している男性患者は、アトリエの最年長メンバーで、自分の芸術活動を仕事だと語っている。
 これら二人の患者の場合、関心は単なるセラピーを越えたところに向いている。彼らの創作活動は、「治療」という唯一の目標を超え出ている。創作活動は、他の芸術家と同じく、彼らの人生設計になったのである。
 こうした点の確認は、フランスのさまざまなアート・セラピーのアトリエでもなされているようです。それについては、パリのサンタンヌ病院のサイトをご覧ください。
( //pagesperso-orange.fr/autismes et sychoses/P21.htm)
 このサイトにはまた、高橋氏、およびその友人の安彦氏が提起した根本的な疑問に対するレファランスもあります。これは、アート・セラピーのアトリエの「規定」についてというよりは、むしろこのタイプのアトリエに出入りする「患者=芸術家」という規定の問題です。作品は誰に属するのか? 「患者=芸術家」の権利とは何か? どうすれば彼らの価値を認めさせ、彼らを守ることが出来るのか? [といった問題です。]
 以上、この映画が私に与えた着想を、手短かに、かつ乱雑に述べてみました。この主題は、精神疾患を起点にして我々の近代社会における芸術家の立場について問いかけています。私としては、主として経済的視点を基本に考えるべきだと思います。​

ミリアム・エルアール(ブザンソン市福祉局員)