​©2019 心の杖として鏡として製作委員会

​フランスからの声1

フランスの人たちからメールが届きました。

★この見事なドキュメンタリー映画に私たちが寄せた関心について一言述べさせてください。
主役の人たちがカメラの存在を忘れてしまうほどに、この集団に作者がすっかり溶け込んでいたことが実にはっきりと見てとれます。
節度と、恥じらいと、感受性が溢れています。

病者同士の関係の質の良さにとても感動しました。フランスの類似の場所では、これほど緊張がない状態はなかなか想像できません。こうしたあり方は日本人のメンタリティーの特質なのでしょうか?
特に強烈な印象を受けたのは、同じ境遇にいる男性から絵入りの小冊子をプレゼントされた若い女性が、その本を読む場面です。そして、彼の分析はなんと的確だったことでしょう。
おそらく、私たちは再びこれについて話し合う機会があるでしょう。

クロード・ダスノワ (保険会社エージェント)

★私は映画の技術面に関してはまったく分かりませんが、この映画は一定期間にわたってアトリエに通っている人々を追い続け、彼らが変化していった過程を捉えているという意味で、物語があり、その展開があり、単なるドキュメンタリーを超えた真の映画だと思います。私は一瞬たりとも退屈しませんでした。その場所も、登場人物たちも、出来事も、絶え間なく私の関心と興味を惹きつけてくれました。これは極めて質の高い映画作品です。

 アートセラピーも私の専門ではありませんが、私が目にしたものはセラピーとしての芸術の類ではありませんでした。たぐい稀な一人の先生が造形芸術や演劇や詩などを用いて、ある種の病者たちが生きてゆくのを手助けし、彼らが自分たちの苦境を表現し、描き、語って、そこから脱出するのを助け、少なくとも創作活動中の暫らくの間であれ、苦しみを軽減し自由でいられるよう目指している、という事を私は目にしたのです。

 私が大いに評価したいのは、この先生が「普通の学生」を前にした「普通の教師」のように振る舞い、授業を準備し、明確な目標を設定し、批評し、勇気付け、あれこれ助言している点です。ここでの患者たちの創作した作品は、あらゆる点から見て「普通の」アトリエで制作された作品に匹敵するものです。不器用なものから、極めて完成度の高いもの、計算されたもの、よく考えられたもの、意図的なもの、良いものや悪いものなど様々です。そして、なかには真の芸術作品といえるものもあります。例えば「絵に熱中しなさいよ」と忠告していた痩せた老紳士の作品など。

 私から見て同じく極めて重要と思われたのは、先生が組織した集団活動であり、相互活動であり、その交流の姿です。先生は作業分担を上手に作り上げ、その下で各人は常に敬意と好意を持って、順番に自分の作品を紹介したり、他人の作品を分析したりします。

 とても感動的だったのは、ある男性が自殺に走った事のある若い女性に自作の絵物語をあげて、これまで歩んできた人生にはまだ続きがあると述べた長いシーンです。ある意味で、彼が彼女に示唆したことは、行き続けることは可能だし、それほど難しいことではない、だから彼女も、もう一度生きて人生を描きなおすことが出来るはずだ、という事でしょう。そして、アトリエのメンバー達もそう望み期待したのです。

 同じく感動的だったのは、苦しみ、自分の問題に閉じ込められ、外界や他者から隔絶され、まったく自閉的になっていると思われるこれらの人々が、実際には他人の真摯な言葉や態度にたいして非常に優れた感受性を表わしている点です。

 この映画は、私たちが問題を提起し直すために有益で必要な疑問をたくさん提出しています。素晴らしい映画に出会ったことを感謝します。

ダニエル・ラボルト(大学教授)

★このドキュメンタリー映画は、まさに芸術性と人間性を備えた作品である。(監督の視点、控えめなナレーション、登場する人々の存在と作業と言葉に与えられた場、など) 見るものは、ある精神病院の患者たちに出会い、彼らが出入りする造形芸術のアトリエの中へと導かれる。80分のこの映画は、常に見るものの感動と興味を逸らさずに、各人が織り上げるストーリーのただ中に誘い込む。(例えば、カメラは強迫神経症障害の男性を追い、沢山の物が詰まった彼の部屋がつくる宇宙に入り込み、アトリエに来る前の夜の遅々とした重苦しい準備の経緯を映し出す。) しかし、またアトリエのただ中にも入り込む。そこでは重要人物と思われる一人の画家(マイスター)が牽引力を持つが(たしかに、この人がいなかったらアトリエは存在しなかっただろう)、ただし、彼はごく稀にしか登場しない。ここでは皆が十全に実存しており、自由に振る舞っている。(たとえば、細菌恐怖症のある若い女性は、どこにいても手袋をつけているが、唯一このアトリエの中だけでは手袋をつけない。) これらの人々は迷いや困難を持ちながらも作品を完成させる作業を通じて自分自身を表現するのである。各人は、創造活動の孤独の中にありながら、他の人びとがそこにいて、自分を他者に向けている。そして、皆が自分の時間の中で、各人の作業に注意を払いながらコミュニケーションを行っているのである。 
 このアトリエは比類のない経験の場である。(アトリエそのものがマイスター≪画家≫の作品であり、彼のような人物の参画がなければ実現は困難だったろう。) そして、各人がそこで完成したものが見せる活力から見ても、そこで体験される関係性の質から見ても、素晴らしい人間性あふれるセンターなのである。(例えば、グループの人びとに対して自分の詩を読み上げる≪彼女≫と、その彼女に付き合ってギターを弾く≪彼≫との間の絆の美しさと純粋さは胸を打つ。こうした質の高さは≪彼女≫が彼に創作意欲を鼓舞した小さな絵本の質の良さでもある。そして、≪彼≫は、同じく感動的なある状況の下で≪彼女≫にこの本を持ち寄るのである。)ここには自己表現や他者への関わりの中で、所有、計算、外見、たんなる[偽りの]見せかけ、権力といった秩序に属するものはまったくない。各人が完全に(対等に)実存しており、他者たちの中に自分の場を見出し、ただ、在るがままの自分を所有しているだけである。我々の[通常の]社会集団とはまったくかけ離れているのである。(・・・。) 我々にとってなんと素晴らしい教訓だろう! 人間に内在する脆さや限界(人は死すべき者だという普遍的条件を共有し、これに限定づけられている、というだけのことだが)は、結局受容されている。そして、そこで本来的に、全員の下に帰属しようとする宇宙の中で-そう望む人も望まない人もいるにせよ-全員による相互依存と相互責任という意識を持って、(所有-権力はもはや存在理由をもたないわけだから)ただ存在を開花させるためだけに各人のエネルギーが発揮されるのである。

 ここでは、芸術作品が真実として影響力を持ち、芸術家にとって一つの成就となっていることがわかる。苦しみがあろうとなかろうと、精神疾患の認定がなされていようがいまいが、、≪完全な芸術家≫と呼ぶにふさわしい人がいる。つまり、表現を通じてその力量に達した人がいるという事である。(それは、東京銀座の画廊で作品を展示した人が、ある種の言い方で指摘した点だが。) この力量は、ただ作品を見るだけの人でも感動をもって認める能力なのだ。何故なら、それは、誰もが持つ普遍的な生のエネルギーの源からくみ上げられたものだからである。

 私にとって、このドキュメンタリー映画は、その偉大な人間性(ヒューマニズム)を通じて、「心の(クール)叫び」を聞かせてくれるだけでなく、「叫びのただ中(クール)」に引き込んでくれる作品である。        

フランソワーズ・ドゥグー(元中学校校長)